2022.7.31
『推し』の文化論感想
いつもこぼれ話を書くときは“エンベロープっぽい”話題を選ぶところですが、たまに少し離れたこともこぼしてみたくなるもので。
今回は、先日聞いた教育者・作家の鳥羽和久さんによるweb講座「『推し』の文化論」が色々と考えさせられた……というか身につまされる話だったので、その話をしてみます。
2時間の講座の中で特に印象に残ったのが「推しを使用する」というトピック。
まず私の話をすると、雷に打たれたように推しができて早くも4年目。日々元気をもらったり癒しをもらったり、毎日のようにweb上に更新される言葉やちょっとした表情、作品が出ればアートワークや歌詞ひとつひとつなどに意味を見出したり思いを馳せています。
けれども生きている人間をコンテンツとして楽しむことはとても危険も孕んでいて。相手を「使用」していることに無自覚だと、他人の「支配」になってしまうんですよね。「支配」になるとコントロール欲求が生まれて、思い通りにいかなかった時に攻撃的になったり一方的な正しさを押し付けようとしてしまうことも。
あくまでも手の届かない平行線にいるのが推しで、その距離感を保ちながら自覚的に「使用」していくこと。分かっていたことでもあるけど、改めて言語化されることでハッとしてしまいました。
これって推しの話だけでなく、全ての人間関係に言えます。恋愛も、職場でのチームも、家族も、誰かと関わることは全て他人の「使用」。けれどもそのことに無自覚で、息を吐くように「支配」しようとしてしまうのが人間の性分だと思います。その前提の中で、どうやって他人と関係を築いていくか。
推しを推すことも、人間関係も、楽しく健康的なものでありたいもの。答えのない話ですが、こうやって推しを起点に色んなことを思索するようになったのも、推し活の楽しい側面のひとつです。
(余談ですが、この「使用」と「支配」の概念は現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが論じたものだそうで、時間のある時に勉強してみようかなと思っています。)